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何かの表と裏という感じで、実は似ていると思います。
張遼が内に溜めて牙としているものを、休哥は外へ向けて存分に放射している。
己の全てだった存在を奪われ、敗軍の将として魏に下った張遼が否応なしに身につけた“何か”を、休哥は必要としていない感じです。
以前にも主張しましたが、仮に張遼が生え抜きの魏将だったら、たぶん、耶律休哥のようなタイプになっていたと思われます。
耶律休哥と、童貫。
相似。鏡に映った自分、という感じ。―――似ているだけに、いざ出会った時には、激烈に険悪な関係になるのではないかと。
そっくりそのままなようでいて、実は左右が違う。
無意識に感じる共通性に嫌悪を募らせ、そのくせまるっきり同じではない微妙な歪みに異様な違和感を覚えてしまう。
友軍として出会っても、やがて本気で一対一の殺し合いをやらかしてしまいそうなくらい、仲悪くなると思われます。―――逆に、肝胆相照らす関係になってもいいとは思いますが。
ちなみに。
童貫と、李逵
李逵、童貫は苦手なのじゃないかと思います。
まあ、実際には宋江や武松の敵なので、すぐに頸を飛ばそうとするに決まっているのですが。仮に、そういう敵対関係抜きで付き合わねばならない状況になったら……嫌いではないけれど、苦手、という感じで。李逵、しょぼくれていればいいと思います。
逆に、李逵と耶律休哥。
案外、話が合うのではないかと。
李逵が大部分喋って、時々、休哥が哄笑。身ぶり手振りなんかも交えながら、たくさん(李逵が)おしゃべりしていればいいです。
で、そのおしゃべりの内容というのが、凄ーく感覚的で論理性欠如で、他の人間が傍で聞いていても「???」という感じ。
休哥、もともと無口で口下手なのに、李逵と会話した後は更に訳の分からない言語(動物語?)になってしまっている、ということで、周囲には不評だといいな、と。
童貫と、張遼。
これぞ、仮に出会えば、肝胆相照らす仲になるのではないかと思います。お互い、己の裡に大きな欠落を抱えていて、その―――痛みを知っている。激痛で、でもそれがもう身に染み付いてしまっていて、耐え難い痛みがあるのが常態で、それゆえにもはや「痛み」ですらない。自分の一部。
その痛みではない「痛み」を、大切な宝として抱きしめる張遼と。
決して放せず抱え込んだまま、それでももはや意味の無いものとして、昇華しようとする童貫と。
方向性は違いますが、お互い、出会えば通じ合うものもあるかと。
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