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北方歴史作品サーチ。
http://www.freebbs.biz/cruiser/cruiser.cgi?user=akane
……北方水滸伝は、原作がそもそもメジャーな方ですし、原典も有名で、水滸伝サーチという検索サイト様もあって、あちこち素敵なサイト様に行き着くことが出来るのですが。
楊家将・血涙や、その他の歴史物。
最高だと思うのですが、扱ってらっしゃるサイト様にはなかなか出会えず、偶に出会えるとしたら、それは正に偶然の出会いゆえでしかなくて。
もっと効率的にお会いできたらいいなあ、と。
そんな風に思いまして、自由登録型の、検索頁を借りてみました!
…………問題は、どうやってこの頁をのことを知っていただくかということ。
それと、セキュリティ。
下手をうったら、一網打尽にされてしまうのが検索サイトの恐ろしいところで……。とりあえず、ひっそりこっそりと宣伝方法を探しつつ、危険の兆候があればすぐに引っ込む、という方針でやっていってみたいと思います。
北方謙○歴史作品を扱っていらっしゃる方、もしも宜しければご登録お願い致します! 管理者というよりも、むしろ読者・閲覧者としてお待ちしております!
以下、楊令伝感想です。
ちょっとネタバレですので、隠します。
戴宗のこと。
水滸伝のころ、戴宗のこと、嫌い……というほどのことはなくても、何かカチンとくる人物だなあと思っていました。
主に、侯健に対する態度が嫌でした。他にも諸々ありましたが。
……贅沢な暮らしをしている侯健を見て、戴宗はあんな暮らしをする必要は無い、あんなことをしなくても、高毬を騙して信用させることくらい出来るはずだ、と考えていたようですが。
つまり、彼は自分が飛脚屋としての裏の貌を青蓮寺に見抜かれて、宋江襲撃の起因を作ってしまった理由(彼が飛脚で大もうけしていながら、不自然にも全く贅沢をしていなかったこと)について、全く反省も理解もしていなかったのだな、と。敵の中で耐え続け、贅沢に溺れそうになりながら、必死に自分を保って頑張っていた侯健という一人の仲間の葛藤も努力も、何も理解していないどころか、理解しようとさえしなかったのだな、と。
結果、何となく素直に好きになりきれない、しこりのようなものを水滸伝時代の戴宗に対して感じていたのですが。
楊令伝を読んで、何となく彼が可哀相になってしまいました。まさに、「老醜」を絵に描いたような姿で……。
楊令伝の彼は。
独善的――何の説明もなく「下」に指示を下してしまう――で、頑なで、偏見が強くて――侯真たちに対するあの態度!――。
もう凄く嫌な奴なのですが。
でも、この傾向というのは、本当は水滸伝時代から既に垣間見られたものなのですよね。ただ、あの時代はあくまで良識の範囲内、理性の垣根の中に収めておくことが出来ていた。言って良いことと悪いことの区別がついていて、それから自分の持っている偏向性をちゃんと自覚して、矯めつつ行動することが出来ていた。
それが楊令伝の時代になると、この……迷妄の様を、もう彼自身抑え切れなくなっているんです。
あ、老いたな、と。
そのように感じました。特に、侯真に向かって言ってはならない言葉、ありえない罵倒をまくし立てている姿を見たときに。
歳を取っていく―――それは様々な経験を積み重ねてより智慧深く、人格を磨き上げていくことでもあるのでしょうが、同時に、確かに持っていた何かを失っていく、衰えていくことでもあると思います。
そう思ったら、何となく、凄く嫌な奴になっている戴宗が気の毒になりました。水滸伝時代に死ねていたら、「頭の硬い頑固なおやっさんだと思っていたが、死なれてみるとその立派さが良く分かる」などと若い者達にも惜しまれつつ消えることが出来ていただろうに、と思いますので。
それから、老いたといえば……侯蒙。
元帥のために生きてきた腹心の文官、元帥に遺されて気の毒だなあとは思っていたのですが。
いよいよ老い果てて、その中でひたすら梁山泊を討つことだけに異様に執着していると聞いて、本当に気の毒で涙が出てきそうになりました。元帥を討たれた、殺された、仇をうちたいッ…という思いが強いのでしょうね。
心中どんなだろうと思うと、気の毒です。岳飛たちとは違って、もう老いて晩年を迎えている侯蒙、新たな生きがいを見出すことも難しいでしょうし……。
討たれても、敗れても、童貫元帥は決して不幸ではなかった。
存分に戦って死ねたのですから。
そう、誰かに伝えてもらいたいと思うのですが(吐息。
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